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こっちを向いてよ

「こっちを向いてよ向井くん 3巻」の感想

最近思うこと。ある概念や役割から逃れたいと思う感情。それは労働、性、家庭、交友関係、そのほか色々。

人間というノードと関係性というエッジを整理するために、それらにはいろいろな名前が付けられる。名前はコミュニケーションのためのものだ。例えば私と貴方の関係性は一緒にご飯を食べたり、電話をしたり、映画を見たり、料理を作って分け与えたり、その時に貴方はこんな隠し味を好んだり、一言では全く表せない関係性なのだが、それの全てを伝えることは普通の差し障りのないコミュニケーションの場の振る舞いではない。だからそれを人は「親友」「恋人」「家族」「夫婦」などと丸め込んで呼んだりする。当然それらの言葉は扱う人によって認識が全く異なる。

麻美が元気との結婚をやめたいと感じたのは、「結婚」や「妻」「夫」「大黒柱」などの言葉と、自分たち自身やその関係性との間に齟齬を感じていたからだ。そしてそう感じてしまうほどに、それらの言葉について人よりずっと真剣に考えているからなのだと思う。

ただなんていうんだろう、麻美の振る舞いはすごく自己中心的に感じてしまう。なんでだろう。ああ、この物語の主題だ。あなたはどこを向いているの?こっちを見てよ。二人の外の人の言葉なんかに耳を貸さないで。ただそれだけだ。

同じ巻のもう一つの物語、チカもそうだ。チカは「結婚」を見ている。向井のことは見ていない。最後に少しだけ二人のことを見る時間が生まれたのは少しの光かもしれない。

どうして人に向き合えず言葉や概念に意識がいってしまうのか、不安だからだろうなと思う。相手の気持ちなんてエスパーじゃないんだからわからない。かといって話題によっちゃそれを聞くことはリスキー。そんながんじがらめの状態から逃避するとき、言葉や概念で遊んでしまい、そうして本来確かめたかったことからどんどんと遠ざかってしまう。

「ある概念や役割から逃れたい」という気持ちが湧き上がるのは、まさに概念や役割を表す言葉に囚われ、それを手遊びの材料にしてしまっていると薄々感じているからで、本当に向き合いたいものと向き合えず迷子になってしまっているからなのではないか。

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